「夢見ることりの望める夢は」 (殻のない小鳥だった)  ぽつり、と、彼はそう思う。  ちいちゃな愛らしいくちばしも、柔らかな羽毛も持たない、酷く不恰好な雛鳥だと。  けれど、そんな殻なし鳥は、どんな猛禽も届かない高みまで飛ぶことができた。どんな渡り鳥も及ばない旅路へ赴くことができた。鋼と、電子と、数え足りないほどの無骨な指に愛されて、彼は生まれた。  目に見えない、幾百もの腕が、彼の背中を押す。そうして彼は、翼を広げる。瞬かない星の海で、永遠の夜明け前である真空のそらに雄々しくはばたく。そのさまは彼の冠する名に相応しく、まるで、『はやぶさ』のようだった。  それは、それは、長い旅だった。  太陽が射かけてくる、凶悪なほどの熱に総身を焦がされた。風切羽は傷み、体の節々は軋んで、予期せぬ落着により、灼熱する砂地に叩きつけられたこともあった。喉が嗄れ、悲鳴を上げることすらできないときもあった。それでも翼は折れなかった。だからこそ今、彼は家路につくことができている。 (僕が)  だらりと体から力を抜き、翼を導く軌跡へただ身を委ねている彼は、ここしばらく、ずっと意識がおぼろげだった。眠っているような、起きているような。名状しがたい曖昧な感覚が、全身をぴりぴりと支配する。羽を休める止まり木もないまま、誰より過酷な道程を飛び続け、文字通りの満身創痍である以上、無理もなかった。たまに、ふうっと記憶が飛ぶことさえある。けれどそんな状態にあってなお、彼はその胸に抱き締め続けているものについては、忘れることがなかった。 (はこぶ、星、の)  ろくに動かない体の中で、ただここだけは、と力をこめる。声もなく、ぎゅう、と抱き締める。そこにあるのは、星の欠片が詰められたとおぼしき、宝箱だった。  誰が呼んだか、『最初で最後の、はじめてのおつかい』。その通りだと、霞む思考の狭間で、彼は小さく笑う。  彼を愛してくれた人たちから託された、彼にしかできないおつかい。それを、彼は誇らしく思う。星の欠片をお願いね、気をつけていってらっしゃい、そう送り出された彼は、矢継ぎ早に降りかかる困難たちを懸命に乗り越え、見事おつかいをやり遂げた。あとは、お家へ帰るだけ。  帰ったら、あの優しい人たちは、何と言ってくれるのだろうか。そんなことを思いながら、意識に混じる雑音をそのままに、彼はゆっくり目を瞑る。 (うんと、回りみちをしました。声がでなくて、よべなかったりもしました)  宇宙と自分の境界線が緩やかにとけてゆく。 (かけらも、きちんと取れたか、おぼえてないし―…ミネルバのことも、ほんとうに)  もう側にはいない、天真爛漫な同行者のことを、忘れるわけはなかった。お互いの手が離れた瞬間、悲鳴じみて彼女の名を呼んだ彼に、天才写真家は悪戯っ子じみてにまりと笑い、ファインダー越しに彼を見つめた。『カメラ! カメラ! カメラ!』と、はしゃぐ彼女の声が、今も体の中で余韻を引き、静かに響くようにも感じられる。 (たくさん、しんぱい、かけました。叱られても、しかた、ない。―…でも、それでも)  つくづく、親不孝なのやもしれない。うっすらとそう思いながらも、つい彼は願う。 (『おかえりなさい』、って。言って、ほしい、な)  のろのろと瞼を押し上げ、今にも失せてしまいそうな意識をどうにか保って、顔を上げる。全身の気怠さは、そろそろ麻痺にも近く感じられた。しかし薄く見えてくる視界に、小さな点をみつけて、彼は目を見開く。機関が突然、鋭敏になったわけでもないのに、遠く月から送られてくる兎たちの声援に、今更気づいた。  月。衛星。何の? それは―― (ちきゅう)  彼のお家のある星が、数年ぶりに、姿を現した。勿論まだ、手を伸ばしても届かない。けれど確実に、彼は旅の最後へ到達しようとしていた。彼は安心しきったように瞳を閉じた。 (ああ。ぼくが)  力を振り絞り、見せつけるように翼を広げようとして、すぐやめる。そんなことをして、星の欠片に障ってはいけないと判断した。 (からのないぼくが、たまごを、のこすことができる)  とびきりの、彼にしか残せない、未来のたまご。後に続く弟たち妹たちのためのみでなく、彼を愛し、また彼も愛した人たち全ての、夢や願いが詰められた宝箱。誇らしいおつかいの成果を改めて抱き直し、彼は無意識に、にっこり微笑んだ。 (あしたのみんなに、よろしくね)  彼が、未来のたまごを大地へ贈り、ただいまを告げる日まで、あと――