関係者からのメッセージ

2010年8月2日

「挑戦力」の灯を受け継ぎたい

スーパーバイザ 津田 雄一

私が「はやぶさ」の計画を初めて聞いたのは、大学生のときでした。宇宙工学をかじりはじめたばかりの私にとって、この「はやぶさ」のやろうとしているサンプルリターン計画は、壮大を通り越して、無謀に思えました。日本にこんな計画が立てられるとは!そして思ったものです。こんなすごい計画を真剣に計画している日本人とは、どんな人たちなのだろうか、と。

もっと小さい頃、似た感覚を持ったことがあります。それは、76年に一度地球に接近するハレーすい星がやってくる1985年、日本が「さきがけ」「すいせい」を打ち上げたときです。この自分のいる日本が、あのハレーすい星に、しかも2機も探査機を打ち上げたのです。小学生ながらに、その凄さに興奮しました。特に日本という国に特別な気分をもつ年頃でもないはずですが、日本はすごい、捨てたものではないぞと思ったことをはっきりと覚えています。

その私が、いろいろな偶然が重なって、「はやぶさ」が打ち上がる1か月前に、当時の宇宙研へ赴任し、「はやぶさ」プロジェクトへ参加しました。参加してわかったこと、それは「はやぶさ」プロジェクトが相当な奇人の集まりであるということ。システム、熱、推進、姿勢、軌道、科学観測、地上系・・・どれをとっても、そこまで考えるのかというほど考えて考えて考えまくっている人たちの集まりなのです。皆、「はやぶさ」を現実的な挑戦課題として、ひとつひとつ着実に仕事をしている人たちでした。そして、私はこの奇人達の仲間入りができたことにこの上ない幸せを感じました。

私の「はやぶさ」での担当は、運用システムの構築と運用の指揮を執るスーパーバイザー。EPNAVというイオンエンジンの運用計画立案ソフトウェアは、運用しながら日々アップグレードしていきました。毎日きめ細かいメンテナンスの必要なイオンエンジン運用を、イトカワへの往路後半では、手放し運転に近い状態にまで持っていくことができました。

運用スーパーバイザーとしては、打上げから地球帰還直前までのほぼ全期間を担当しました。忘れられないのは、やはりイトカワへのタッチダウン運用。海外局も使い24時間ぶっ通しの運用のため、運用を指揮するスーパーバイザーも1日3交代制になっていました。タッチダウンそのものは極めてクリティカルな運用のため、熟練度を上げるためにいつも同じ人が同じ担当をすることになっていました。その結果、私はどのタッチダウンもどのタッチダウンリハーサルも、タッチダウンの「直前」までの運用という何とも微妙、いや絶妙な箇所を担当させていただきました。自分の担当以外の時間は、休息することが求められていたのですが、そんなことできるわけもなく、自分のお膳立てした運用が引き継がれるのを見守りつつ、タッチダウンの現場へ立ち会ったのでした。

「はやぶさ」がイトカワを離れたあとの、最後の2年ほどは、プロジェクトの立ち上げから関わっていたIKAROSの開発とかけもちになり、「はやぶさ」帰還時には、遂に打ち上げたばかりのIKAROSの運用につきっきりになり、まことに残念なことには地球帰還運用に力を注ぐことができませんでした。

それでも、「はやぶさ」の最後の運用のあの日、同じ運用室で、産声を上げたばかりのIKAROSの運用をしながら、「はやぶさ」からの最後のデータを見とることができました。「はやぶさ」よ、深宇宙航行のバトンはしっかり受け継いだぞ。

一見無謀に見えるもの、しかしその実技術に裏打ちされた挑戦。これができるのは日本人の勇気であり、「挑戦力」なのだと思います。「さきがけ」「すいせい」の無謀に魅せられ、「はやぶさ」ではその無謀の片棒を担ぎ、IKAROSでは無謀の中心に。そしてそれら“魅せる無謀”は、実は十分な技術に裏打ちされた挑戦力のなせる業である、そのことを、「はやぶさ」の運用に7年携わり、やっと、手と目と心で実感できた気がします。

「さきがけ」、「すいせい」、「はやぶさ」、IKAROS、そしてその先へ。私は、先人の「挑戦力」の灯をしっかりと受け継いでいきたい。


筆者紹介

津田 雄一さんは、「はやぶさ」のスーパーバイザであり、現在は「イカロス」チームを束ねています。
JAXA入社前は東京大学の中須賀研で超小型衛星(通称:キューブサット)「XI-IV」のプロマネをしていました。JAXAでは、深宇宙探査機のシステム、軌道設計を専門にしています。

「XI-IV」は現在も稼働中で「はやぶさ」より長寿になりました。キューブサットと津田さん達の活躍については、UNISECのサイト内の 「CubeSat物語」のページ か、川島レイさんの著書「キューブサット物語」を読むと良いですよ。(IES兄)

もっと詳しく

プレスキット

関連ページリンク