関係者からのメッセージ
2010年7月9日
私の選ぶ「はやぶさ」最高の「その時」
探査機運用班長、スーパーバイザー、イオンエンジン担当 西山 和孝
「はやぶさ」の応援をしてくださった方々やプロジェクト関係者の皆さんにとって、最も印象的で記憶に残った「その時」は7年間の「はやぶさ物語」のどの場面でしょうか?
おそらく、「はやぶさ」がさまざまな苦難に立ち向かう場面を思い浮かべる方が多いことでしょう。プロジェクト関係者ですら記憶にないことかもしれませんが、私はあえてイトカワ到着の4ヶ月ほど前の2005年5月10日から17日にかけての一週間を最高の名場面、「その時」としてあげたいと思います。
2010年6月13日、一時は「強制終了」かとも思われた7年間(2592日間)にわたる「はやぶさ」探査機運用のラストシーン(最終追跡運用)を私は最終スーパーバイザーとして完成(管制)することができました。全ミッション期間の探査機追跡はコマンド送信記録に残っているものだけでも2124回、のべ14284時間、送信コマンド総数は233757行に達します。相模原の管制室で行われるこのような追跡業務を監督するのがスーパーバイザーとよばれる仕事です。「はやぶさ」における私の役回りは、当初計画では4年とされていて、後に3年延長されることとなったイトカワとの往復の巡航運用のスーパーバイザーたちの取りまとめ役というもので、運用当番を含めた人員配置や地上局スケジュール確保などの事務的な仕事も含まれていました。なぜ私だったかというと、巡航運用から逃れようのないイオンエンジングループの一員であることと、ほどよく若輩であったためでしょう。最終追跡運用を私が担当できたのは、スーパーバイザーからカプセル回収組が抜けて人手不足になったことと自らの役得によるものです。
2003年5月9日の「はやぶさ」打上げ直後から2ヶ月近くの間はNECの大島さんと萩野さんにつきっきりで初期運用を担当していただきましたが、7月7日以降は宇宙研の准教授・助教(当時の呼び名は助教授・助手)などからなるスーパーバイザー10名が週代わりで巡航運用を担当するようになりました。(メンバーの入れ代わりがあり、最終的には20名以上がスーパーバイザーを経験しています。)当初は毎日7時間以上の運用が終わった後も、その日の運用報告、いわゆる日報を書くのに30分から1時間も費やしていて、研究活動が本務のスーパーバイザー達の重荷になっていました。徐々に運用がこなれてきて、ある程度日報の形式が定まってきたことから、探査機のデータを自動的に記入できるようなプログラムを私が作って、日報執筆作業の時間短縮を図りました。当初はボランティア精神でこのようなプログラムを気軽に作ったのですが、それまで存在しなかった便利なものが使えるようになっても、それは即座に当たり前で必須のものになってしまうため、その後は改良の義務が発生するということを学びました。それでも必要性を感じて自主的に作ったもののメンテナンスはさほど苦になりませんでした。
イオンエンジンにより四六時中軌道変更を行うクリティカル(危険で重要)な運用であるのが、「はやぶさ」巡航運用の特徴で、NECの小湊さんを中心に、現在IKAROSで活躍中の宇宙研の津田さん、森さんとともに、EPNAV(イーピーナブ)という電気推進による探査機誘導計画立案ソフトとその周辺ソフトウェアを開発・改良することが、私のもうひとつの重要な仕事でした。このソフトは、臼田局などのアンテナ予約状況と軌道計画を元に、最短時間で毎週一回火曜日のコマンド運用を完了させ、残りの曜日を探査機状態監視専用のテレメトリ・レンジ運用として最大限のイオンエンジン運転時間を確保するようなスケジューリングをし、そのために必要な火曜日の運用手順、その他の曜日の手順書とチェックシート、探査機に登録する実行時刻指定付きコマンド列や探査機自律機能など、一週間の運用に必要なものすべてを一気に生成してくれる大変な力作でした。
ところが、「はやぶさ」巡航運用の難しいところは、同じ運用パターンや探査機設定が長くは通用しないという点にありました。これは、探査機と太陽との距離や、イオンエンジン噴射のための探査機姿勢と地球方向との関係などが徐々にですが確実に変化するためで、「はやぶさ」計画の本質的な特徴でした。このせいで、EPNAVの整備改良は終わることがなく、常に新しい運用パターンに対応した機能を追加し続ける必要がありました。私たちは、いつまでたっても安定したルーチンワークとなることがない、そのような状況を皮肉って「毎日が日常的に非定常だね」と言って笑っていました。矛盾した言い方ですが、運用を楽にするために2年間苦労してきました。そして皆さん、いよいよ私の選ぶ「その時」がやってまいります。
2005年5月10日(火)から17日(火)にかけての一週間は、太陽から1.61天文単位、地球からは2.52天文単位(電波の往復時間41.7分)も離れた状況で、「はやぶさ」の全期間を通じても最も過酷な時期のイオンエンジンによる動力航行を継続していました。太陽電池の発生電力が乏しかったため、地上と交信しない時間帯は探査機の送信機をオフすることで電力を捻出しBとDの2台のイオンエンジンを運転し、交信時間帯にはBのエンジンを停止してから送信機をオンして8bps(1秒間に8ビット)という超低速通信で探査機のデータを毎日2ショットだけ探査機の健康状態確認用のデータを取得し(これだけでも1時間かかってしまう)、再び送信機をオフして2台運転に戻るという繰り返し動作のすべてを探査機にあらかじめ仕込んでおきました。軌道計画の見直しがあってエンジン停止時刻を若干延期するための修正コマンドを4個だけ14日(土)に送信したことを除けば、非常に順調にイオンエンジン運転を行うことができたため、全く追加のコマンドを送る必要もなく、「はやぶさ」は全自動状態で動力航行を行ってくれました。EPNAVで事前準備したコマンド計画が必要十分であったことと、イオンエンジンや探査機の状態が良好であったこととがうまく重なったために、私たちの追求してきた理想的な一週間がここに達成されたのです。このような「はやぶさ」の「手放し運転」とも言える記念すべき一週間を担当したスーパーバイザーが運用の効率化・省力化に取り組んできた西山・津田・森の三名であったことは偶然ではないでしょう。
アメリカのディープスペース1号が2001年に樹立した16000時間という宇宙動力航行の記録を、「はやぶさ」は約25600時間と大幅に更新し、ギネスブックに申請することとなりました。このうちのわずか168時間(1週間)にすぎませんが、前述の1週間は私にとっての金字塔となる出来事、というか「何事もなかった」ことでした。この前後の数週間も比較的平穏で、電気推進を使う探査機運用のひとつの境地に達したかに思われましたが、2005年7月にはリアクションホイールが故障し、その後のイトカワ近接運用、通信途絶と復旧作業、太陽輻射圧トルクでの姿勢制御、姿勢制御の困難な中でのイオンエンジン復路運転、イオンエンジンの故障と復旧といった想定外の複雑な事態の続出で各機器担当者らによる臨機応変で当意即妙の集中ケアが必要になり、復路ではEPNAVの出る幕は完全になくなりました。しかしながら、往路の巡航運用のノウハウの蓄積を無駄にしないためにも「はやぶさ2」などの後継機による探査でもう一度EPNAVを使った巡航運用に取り組んでみたいと思います。さらに先の話になりますが、将来の一層高度に自律化された探査機においては、巡航運用では「小惑星XXへ向かえ」、「地球へ帰還せよ」とだけ命令すればよく、毎日の日報は探査機が自分で作成して送ってくるようしたい、というのが私が半ば本気で考えていることです。それでこそ、同時にいくつもの日本の探査機が太陽系を所狭しと駆け巡る大航海時代を実現できるのです。私の選ぶ「はやぶさ」最高の「その時」は、そのような夢の実現可能性を垣間見ることができた一週間なのです。
筆者紹介
イオンエンジンのプロフェッショナルであり、「はやぶさ」運用の“探査機運用班長”として最前線で指揮を執り続けた西山和孝先生、その仕事の全てを説明するのは容易ではありません。「はやぶさ」の帰還、カプセル再突入回収に係る運用を統べる『探査機運用班長』をはじめ、スーパーバイザ、イオンエンジン、データベース構築、運用ツール作成、管制局アサイン、人員配置など、運用の要所の全てを引き受けていました。
研究では、学生時代から現在までマイクロ波放電式イオンエンジンの研究をずっと続けています。現在は、はやぶさの主エンジン「μ10」の3倍の推力を誇る新型エンジン「μ20」の開発に力を注いでおられます。より大きな探査機や宇宙望遠鏡を動かすエンジンとして期待されています。
私の上司であり大学の先輩である西山先生。鋭い頭の回転から繰り出されるタイムリーなユーモアの数々は私も脱帽です(参考:メルマガ「電気のロケット屋さんとSFと三国志」 )。私が全幅の信頼を寄せる人です(なので紹介文が長くなりました)。(IES兄)
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