関係者からのメッセージ

2010年8月5日

「はやぶさ」前史

元宇宙開発委員長・元宇宙科学研究所長 松尾 弘毅

「はやぶさ」が、無事かどうかは別にして、帰ってきました。打上げの運びになるまでの私から見た経緯を、些か恣意的に述べてみましょう。

まずは、糸川先生がまだ東大にご在籍のころ、LD-2というロケットの構想があって(当時直径1.4mを目指していたM ロケットに対して、大直径2.0mの意)、私が火星、金星への可搬能力を計算したことがあります。これが我が国における惑星間飛行の最初の匂いでしょう。

1974年に私が最初に渡米した時にも、最も力の入った訪問先はJPLでした。もちろん手元には簡単な計算プログラムしかなく、このような簡略化したモデルを用いて可能だと判断された計画が、厳密な検討によって否定されることがあるのかどうか、ということが気になっていたようです。大丈夫そうな話ですが、未経験というのは何かと気になるものです。

さて、その後5段式のMロケットを用いた検討などもありましたが、わが国初の惑星間飛行が実現するのは実に十余年後のハレー彗星探査計画「さきがけ」「すいせい」においてでした。1985年から1986年にかけてのことです。76年に一度回帰するこの彗星の探査を成功裏に実施することによって、我が国は惑星間飛行のための基盤技術を確立しました。超遠距離通信、同軌道決定、探査機運用技術等々です。また、今に活躍する臼田深宇宙局を手にしました。上杉、川口組もこの時に確立したもののひとつです。

ハレー艦隊と呼ばれたこの時の協調関係を常設化したIACG(Inter-Agency Consultative Group)は、日、米、欧、ソの宇宙科学分野での協調機構として、我が国の宇宙科学が世界の第一線に躍り出る場を提供しました。政府間ではなく、当事者能力を有する機関間というのがポイントでした。

このミッションを可能にしたM-3SIIロケットは、その後華やかに科学衛星の時代を演出し、次に惑星間飛行の機会が巡ってきたのは、1990年に月の多重スイングバイを行った「ひてん」の時でした。これは工学実験衛星の第1号で、MUSES-Aです。

当時、1990年代後半の惑星探査ミッションに対応すべくM-Vロケットの構想があり、このようなミッション遂行には新規の工学技術が必要であること、ロケットの制式化に伴い衛星/探査機工学の相対的比重が増すであろうこと、がこのカテゴリー確立の背景にあります。後者の点について言えば、Mロケットはそれまで、ミッションからの性能要求に応えさらにロケットとしての完成型を求めて、3~4機毎に改良、更新を進めてきましたが、M-3SIIロケットでは8機が打ち上げられました。このカテゴリーはこの後MUSES-B「はるか」、MUSES-C「はやぶさ」と続きます。

さて、小惑星サンプルリターン計画は当初理学ミッションとして検討されていました。しかしながら、工学的要素が非常に多いことから、宇宙工学委員会の下にワーキンググループを作って検討を進めることとなり、その結果1995年3月の同委員会で、同計画を工学ミッションとして所に提案することが承認されました。一方、同年1月宇宙理学委員会は赤外線天文衛星を次期計画として推すことを決定しており、所としての選択が迫られました。結論は「予算の平滑化のため2000年度における打上げ計画は断念せざるを得ず、打上げ時期に制約のあるサンプルリターンを6カ年計画として要望、赤外は2002年夏打ちを前提として最大限努力する」というものでした。

これに沿って、宇宙開発委員会に同計画の承認を要望し、同年8月サンプルリターン計画がMUSES-Cとして認められました。対象は小惑星ネリウス、打上げは2002年1月とされました。これが正式のスタートだとしてもすでに15年を経たことになります。

開発要素の多いことは、宇宙開発委員会でも当然話題になりました。複数の開発要素がある場合、共倒れが心配です。ミッション機器とバス機器とでは考え方が違ってしかるべきですが、MUSES-Cの場合開発要素が双方を兼ねているので厄介です。特に電気推進は心配でしたが、コンティジェンシープランを考えることを前提とし少ない機会を有効に使いたい、サンプルを持ち帰る気ではいるがそれが駄目でも0/1の世界にならぬよう十分配慮したい、と補足して諒とされました。成功確率は如何ほどかと、お定まりの質問も出ましたが、これは当時の武田部会長が「宇宙研は研究所だから」と引き取ってくださいました。

ということで計画が開始され、1999年8月には、探査機重量の増加に対応するため対象を従来のバックアップであった1989MLとし、打上げを2002年7月とすることを宇宙開発委員会に申し出て了承されるなど(この変更によりM-Vの探査機可搬能力は最大365kgから最小489kgに増加)、苦労のほどは偲ばれますが、2000年2月にはまさに青天の霹靂にうたれます。M-Vの3番機によるASTRO-Eの打上げ失敗です。第1段モーターのノズルグラファイトの損壊ですが、今考えてもとても難しいケースでした。

とにかく全体としてのスケジュール遅れは必至で、それになにしろ、何とか早く打ち上げたいという気持ちなど吹っ飛ぶほど予算も大変でした。当時の鶴田企画調整主幹からのMUSES-Cの3年延期の打診に対する「とんでもない」という上杉教授の返答が手元にあります。

実は、西にFarquharあり東に川口ありという一節が上の返答にあるのですが、軌道グループは、対象を1998SF36に変更すればM-V再開の準備状況とも整合する2002年12月にウィンドウがあることを見出し、2000年7月の宇宙開発委員会で了承を得ます。2003年度夏期にLUNAR-A、冬期にASTRO-F、さらに2004年度にASTRO-EIIという過密スケジュールでした。親元の文部省の苦心も大変だったと思います。

ただし、これに伴って米国ユタでの回収が不可能となり代替地をウーメラとしたことから、NASAとの関係の再構築、オーストラリアとの関係の構築が新たに必要となりました。外国との関係ではMOUの締結が不可欠です。門外漢には中身は大したものにも見えないのですが、毎回大騒ぎになります。直接担当することがなくて幸せだったことの一つ、というのはまあ冗談だと思ってください。担当者の苦労は長年見てきました。

息が切れたので少し飛ばしますが、打上げ前年の2002年にはいろんなことが起こりました。
技術的には、レーザ高度計の不具合、二液推進系調圧弁の漏洩に端を発するOリングの異材使用懸念等々。特に後者は一時深刻な様相を呈し、9月には、対処に時間を要するとして、バックアップとして用意していた2003年5月に打上げを延期することを宇宙開発委員会に申し出ます。

5月というのは実は漁業者との関連では大変に悪い時期で、その理解を得るために、ここに至るまでの間関係者は奔命することになります。状況は楽観を許さないとして、苦しいながらも当初案の2002年12月打上げを維持するべく、ぎりぎりの努力が続けられました。「的川先生の顔をみると断りづらくなるので、あの先生は来ないようにして欲しい」という話が先方から伝わってきたのも、この頃のことだったと思います。私も宮崎に伺った覚えがあります。

もっと大きな状況として、三機関統合の準備が進行中であり、大学共同利用機関の法人化の動きも睨みながら、松本企画調整主幹、中島管理部長以下、対応に追われていました。宇宙研にも統合に向けての動機がなかったわけではありませんが、当時の有無を言わさぬ外圧の下では「追われていた」というのが実感です。

さらに、最大の課題である小野田教授率いるM-Vの再開準備は最終段階を迎えており、毎年恒例のように「今年は例年になく大変」と言ってきましたが、今考えてもこの年が一番だったような気がします。止まったら転びます。ダイナミックにバランスしながら突っ走っていたのでしょう。

「はやぶさ」の帰還後、当時の管理部の人たちと往時をしのびました。涙しながらニュースを見てくださった方もいらしたようです。

  番外編で、この年の2月4日にはH-IIAロケットのピギーバックとしてDASHが打ち上げられ、残念ながら失敗しました。モーリタニアでカプセルを回収する予定の高速突入実験でしたが、ロケット本体からカプセルが分離しなかったものです。ピギーバックとはいえ、宇宙研といういわば正規軍が出て行っての失敗ですから大いに反省すべきですが、全体に「H-IIAの失敗」に近いニュアンスで受け取られ(報道され)たことから、大変大きな波紋を呼びました。宇宙開発事業団にも迷惑をお掛けしました。ただ、MUSES-Cのカプセルについては、DASH計画の遅れもあって、NASAとの協力による耐熱試験及び設計の評価がすでに実施されていたため、DASH計画自体が広く再突入技術の蓄積という位置づけにあったことは、幸いでした。

。 「のぞみ」の時もそうでしたが、困難に際しての問題解決への執念、能力は誰しも認めるところです。ただ、苦労の発端は、チャレンジングならざる部分にあったように思います。私は宇宙開発を最も宇宙開発たらしめているのは、Exploration/探査だと思っています。足元を踏み固めながら今後も前進して欲しいものです。

2010年7月16日


筆者紹介

松尾弘毅先生は、元・宇宙科学研究所長でいらっしゃいます。
長く宇宙工学・宇宙科学に取り組んで来られた先生ならではのご認識、ご視点が感じられます。

もっと詳しく

プレスキット

関連ページリンク